仙台伊達62万石ツアー:仙台城址~瑞鳳殿~瑞巌寺

奥羽の覇者として天下人の太閤秀吉や大御所家康とも堂々と渡り歩き、晩年は将軍のご意見番として天下の副将軍を名乗り、奥羽に独眼竜あり!と諸大名に畏敬の念をもって接しられた戦国の風雲児・伊達政宗公。若き日はその荒武者ぶりで戦場において数々の伝説をつくり、仙台62万石の領主となってからは藩内の治世に務め、領民からは花も実もある大名よと愛され、歴史に燦然と輝く功績を残した人でした。

その政宗の居城であった仙台城は今や石垣しか残っておらず高台の広場に騎馬像と歴史資料館があるのみですが、さぞかし風光明媚な立派な城だった思います。資料館の模型やCGでの再現映像で全貌を見ることができます。

 

 

 

そして仙台城から少し東に位置する経ヶ峰という高台に伊達家3代(政宗~忠宗~綱宗)の霊廟・瑞鳳殿があります。政宗公が生前に自ら経ヶ峰を訪れ、自分が死んだらここに墓所を造るよう指示したと言われており、またこの経ヶ峰は伝説の修験僧・満海上人の墓があったとされている場所。ちなみに政宗公は同じ隻眼の満海上人の生まれ変わりとも言われてました。瑞鳳殿は2代忠宗公によって建立されたものですが、桃山文化の遺風を伝える綺羅びやかな装飾が施された豪華絢爛な廟建築であります。さすが当代随一と言われた洒落者の政宗公らしい霊廟かと拝察した次第。建築的にも非常に良い勉強になりました。

 

 

そして最後に日本三景のひとつ松島にある政宗の菩提寺でもある瑞巌寺。用材を紀州(和歌山県)熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運び、大工は梅村彦左衛門家次一家や、刑部(鶴)左衛門国次ら名工130名を招き寄せて建立したという政宗公肝いりの国宝に指定されている寺。本堂は禅宗方丈様式に武家邸宅の書院を加えた10室間取で、東・南・西三方に上縁・下縁を巡らしています。なかなか立派な木材を各所に使用しい手の混んだ細工がされており、京の寺院にも劣らない素晴らしい造りでしたね。また江戸幕府の幕閣たちから、幕府を転覆させる恐れのある油断ならぬ大名として睨まれていた政宗は、一部の幕閣の陰謀による仙台藩討伐の危機がありましたが、その時にもし仙台城が落城した場合はこの瑞巌寺を最後の砦とするよう指示していたと言われてます。

いずれにせよ、太平の御世にあっても畏れられるは武門の誉である…. と政宗は豪快に笑って一笑に付していたと言います。その後は2代将軍秀忠公から圧倒的な信頼を勝ち取り、また大御所家康公が「何か不都合ある時は伊達政宗を頼りとせよ」と遺言を残していたこともあり、天下のご意見番としてその地位を不動のものとしました。また3代将軍家光公からは「父のように思う」と慕われ、政宗公が病に伏していた時に将軍自ら見舞いに訪れるという異例の扱いだったらしい。家光公が3代将軍就任の席上で諸大名に放った有名な言上、

 

 

「東照宮(家康)が天下を平定なさるに際しては、諸侯の力を借りた。また秀忠公も、元はおのおのがたの同僚であった。しかし、余は生まれながらの将軍であり、前の二代とは格式が異なる。よっておのおの方の扱いは、これより、家臣同様である!」

は政宗の入れ知恵によるものだったとも言われている。政宗の死の報せを聞いた家光は、秀忠が死んだ時よりも落胆したと言われ、江戸で7日、京で3日間、殺生や遊興を禁止したほど政宗贔屓だったようだ。戦国の生き残りとして天下の将軍に忌憚なく意見を述べる政宗に家光が相当の信頼を置いていたのは間違いないみたいです。激しい戦乱の世をかいくぐり、晩年は天下の副将軍として不動の地位を確立した政宗公は天下人になる夢は叶わなかったものの、その後約380年もの間、戦国の英雄として語り継がれるわけですから凄いですよね。逆に石田三成などは徳川から逆臣の汚名を着せられ、後世まで逆賊扱いで語られたわけですから同じ戦国大名でも天と地ほどの差があります。

仙台伊達62万石ツアー:白石城!

夏休みで家族連れて仙台伊達62万石の旅に行ってきました。実は東北は全然行ったことがなく、仙台へも初上陸。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」を観て以来の伊達政宗フリークでずっと行きたかったんですが何故か行く機会に恵まれず。今回は神戸空港から仙台空港への便が復活したので、これはもう絶対行くしかないと決意して62万石の旅へ。

まずは仙台に着いてから目指したのが白石市にある白石城。白石市は仙台の南側に位置する城下町です。素麺の短いバージョンで若干柔らかい感じの温麺(うーめん)が有名な処であります。そしてこの白石城は伊達政宗の一番の家臣であった片倉小十郎景綱が入城して以来代々片倉家の居城であった城です。江戸幕府の時代にあっては一国一城制という厳しい掟が外様大名に課せられたものの、将軍家の信頼著しく厚い政宗公の仙台藩のみが仙台城と白石城の2城を異例中の異例で認められました。

その片倉小十郎景綱という家臣、これがまた天下に数いる名臣(直江兼続・島左近・黒田官兵衛などなど)の中でも一番の殿様思いの家臣で、死ぬまで伊達家一筋に忠節を果たした忠臣のなかの忠臣。

元々は神社の宮司の子だったのですが、政宗の父・輝宗公がその小十郎の利発さを気に入り、幼き日の政宗(幼名・梵天丸)の傅役に大抜擢。幼い政宗が疱瘡によって病み、飛び出た自分の右眼を抉り出すよう命じたとき、それに応じたのも景綱であった。これ以来、政宗の失った右眼となることを誓った景綱は、主君を支える軍師として、また一人の武将として常に政宗の側にあって知勇を駆使し、「独眼竜のいるところ、必ず片倉小十郎の姿あり」と周囲に恐れられ
、数々の伊達家のピンチの場面で時に若き政宗を体を張って諌め、伊達家を護った忠臣の鑑のような智将でありました。

18歳で父輝宗から家督を譲受け、初陣を必ず勝利で飾ると血気盛ん意気込んで芦名氏との戦にのぞんだものの、頼みの武将の裏切りにあい多くの兵を失い、退陣を余儀なくされる場面で、退却しないと全滅しかねない….という家臣の進言も聞き入れず、ひたすら攻め込むことに躍起になって譲らない政宗に、

「戦には駆け引きがござりまする。押すべきは押し、引くべきは引くが理の当然。成算なく猪突猛進致すはこれ匹夫の勇にあらずして何ぞや!ご退陣の前ぶれを何卒!殿(しんがり・退却の最後尾を務めること)はこの小十郎が務めまする!」

と体を張って諌め、全滅寸前の軍を救い、また関白秀吉の小田原北条氏攻めの際には、小田原へ参陣して臣下の礼をとるべし!という秀吉の命令を無視して上方の軍勢と一戦交えて奥州にて滅亡いたさん!と鼻息荒く政宗に進言する武闘派の伊達成実らに同調し、小田原参陣を拒む政宗に対し、

「今や関東より西の武将は徳川殿、毛利殿を始めいずれの国も関白の命に背く者はござらん。ひとり小田原の北条のみがこれに従わず関白殿の咎めを受けておりまする。関白殿の命に背くは即ち朝廷を侮るに等しく、逆臣の汚名を着せられても致し方ござりません。殿もまた北条殿に習い、奥州に留まりて滅亡なされば、末代まで逆臣の名を残すことと相成りましょう。」

「朝廷を畏れざるは不忠の罪なり!関白の命に背くは不義の罪なり!先祖伝来のお家を滅ぼすのは不孝の罪なり!不忠・不義・不孝の罪を犯しては、天の助けもあるべからず!」

と打ち首覚悟で政宗に進言し、その命をかけた小十郎の迫力に政宗は考えを改め小田原参陣を決め、寸出のところで関白秀吉から打首を免れたのは有名な話である。

また小田原城の落城後、奥州仕置に出向いた関白秀吉から、「5万石で三春城を与えるからワシの家臣になれ!お主の働き様によったら10万石にしてやってもいいぞ!」と政宗のいる前でヘッドハンティングされるも、

「某(それがし)は先君輝宗様格別のお引き立てにより姉共々伊達家にお仕えして事概19年、伊達家にて過分の処遇を賜っておりますれば何卒平にご容赦願い奉りまする。」

と関白のまたとない申し出を断り、その場にいた石田三成や蒲生氏郷らが政宗に「政宗殿が許すと言えば小十郎も申し出を受けるだろう!」と詰め寄るも更に、

「もし伊達家にて不要と仰せられれば、この小十郎、己の不忠を恥じてこの場で直ちに割腹仕りまする!」

と決死の覚悟で秀吉に断りを入れ、その忠義ぶりに秀吉も感服し、「どうじゃ!ワシが見込んだ男であろう!あっぱれ!」と羽織っていた衣を小十郎に遣わしたという。

「独眼竜政宗」では西郷輝彦さんが素晴らしい演技で小十郎を演じておられました。私的にはいわゆる戦国の軍師と言われるナンバーツーの中では片倉小十郎景綱が一番好きです。その白石城(復元されたものですが)に来れて感無量でありました。

しかし、この日の仙台は異常な暑さで汗がとめどなく吹き出て焼け死ぬかと思いました(笑)。ホントは甲冑までフル装備で着てみたかったのですが、さすがに熱中症になると思い断念。次回は春か秋に来ないといかんなぁ~。

理解度にそったカリキュラム

先週ののキッズクラスは非常に良質な内容の稽古が出来た。クラスが成熟してきたというか、子どもたちの理解力も相当向上してきたので、より武術的な要素を深めた内容に徐々にシフトしている。

理解度にそってカリキュラムのレベルを上げていくことで武術の本当の面白さを子どもたちに体感してもらいたいという目論見である。  

実戦護身術『剣』の本当の面白さとは武術的側面による処であると思っている。電光石火のスピードは元より、相手の生理的弱点を徹底追求した見事な身体操作こそ『剣』の真骨頂と承る。